自己紹介

【自己紹介】アメリカ留学後の人生の大きな失敗を超えて目指すハンガリーでの大学院留学

 

自己紹介

こんにちは、はじめまして、じゅんといいます!

まず初めに簡単な自己紹介をさせていただきます。

今は、25歳で、

現在は大学を卒業してから、某24時間フィットネスジムでアルバイトをしています。

もちろん筋トレが大好きです!(多い時で週5で筋トレしてます。)

今は、ハンガリーの大学院進学を目指しており、Good Friends Japan様のお力を借りたく、今回エントリーさせていただくことにしました。

英語は日常英会話は特に問題ないレベルです。

IELTS Academic 6.0

まだまだ英語は勉強中です。

ネットフリックスで洋画を見るのが大好きです!

正直私は、英語に目覚めるのが遅く、人よりも学ぶスピードも遅いので、他の方の自己紹介を読んであまりの意識の高さに少し気が引けてしまいました(笑)

これからここで書いてくことはどんどん後半に向けてマイナスな話になっていきますが、濃い話には、なっていると思いますのでどうぞお楽しみください。

これから話していくこと

  • 高校までの生い立ちと英語に興味を持ち始めたきっかけ
  • 大学生活と1回目のアメリカ留学
  • 2回目のアメリカ留学
  • 帰国後の人生が大きく変わった瞬間
  • 留学を続けたい理由
  • ハンガリーに決めた理由
  • 卒業後の進路、夢
  • 最後に

高校までの生い立ちと英語に興味を持ち始めたきっかけ

私は、高校生までは、特に夢もなく、なんとなく地元の田舎の小学校、中学校を卒業し高校に入学しました。(英語が多分、一番苦手だったと思います。)

とにかく外に出るのが好きで小学生の頃は日が暮れるまで公園でかけっこをしてよく親に怒られていました(笑)

中学生の頃もお昼時間には、とりあえず校庭を走り回っていました。(年に1回あるマラソンは大っ嫌いでしたが、、、)

高校2年生になると自分の好きな物(ゲーム、映画、モンスターエナジードリンクなど)がアメリカから来てる物でなぜか唐突に”英語を話せる様になりたい”、”アメリカに行ってみたい”と思う様になりました。

ですが、これまでまともに英語を勉強してこなかったせいでまず何から始めればいいのかもわからずじまいでした。

そこで、私は高校時代、体操部に所属していたのですが、体操部の後輩の友達がアメリカ人のハーフということで後輩にその方を紹介してもらい、彼にどうすれば英語を話せる様になるのか聞いてみました。

すると、まずFacebookを作って外国人と交流すればいいと言われ、とりあえずアカウントを作ってみました。

(いい考えとは思えないですが)Facebookのアカウントを作成後、手当たり次第に英語圏の方たちに翻訳アプリを使って作った文章で”英語を話せる友達が欲しいので、友達になってくださいと”送り続けてみました。

そこで6、7人くらいの外国人と連絡がつきその中の2人とは、ポストカードを交換するまでの仲になりました。(今でもFacebookではその方達と繋がっています。)

それでも英語力は全く伸びず(翻訳アプリの使いすぎで、、、)高校3年生になり、学部が大学進学系列だったため大学について考え始めました。

大学生活と1回目のアメリカ留学

英語学科を専攻にするのには、何故か抵抗があり(多分英語学科は英語だけしか勉強しないんだと思っていたと思います。)それでも、少しでも英語を勉強し他のことも学びたかったので、某大学の国際関係学部に入学することになりました。正直、大学1年時は新しい環境プラス1暮しだったので周りに流されがちでした、、、(言い訳で申し訳ないです。泣)

大学2年時には、姉妹校であるアメリカの大学に語学留学ということで1年間アメリカに行きました。基本的には英語を学ぶだけのクラスだったので事前に受けたTOEICのテストの点数で1から9セクションにクラスを分けられていました。(9が1番上です)私は、当時英語の基礎もできなかったのでセクション3に割り振られました、、、(セクション1に行くと思っていたのですが、たまたまTOEICのスコアが良かったのだと思います。)

私の英語がどのくらいできなかったというと、初めてルームメイトと会った時に

ルームメイト「Hey, what’s up man!」

私「ahhh, yes! yes!」と言いながらルームメイトとハグ

こんなレベルでした。

正直、今思い出すと、すごく恥ずかしいです(笑)

他にも私の1つの辛い思い出としては、レストランで”Water”という1つの単語がなかなか聞き取れてもらえず、水を頼むたびに聞き直され、結構落ち込みました、、、

それでも流石に水くらいは頼めるようになりたかったのでYoutubeで”Water”の発音の仕方の動画を永遠と見て、聞きながら発音の練習を続けました。

留学の中盤になると少し英語力に自信が出始め友達も少しずつできていきました。

正直、この1回目の留学のマイナス点としては、姉妹校の交換留学ということもあり毎年100人近くの日本人生徒が一斉にその大学に行き、常に日本人といることが必然的に増えてしまう環境になってしまっていました。特に夏休みに関しては、日本人生徒は夏休み中一箇所の寮にまとめられ、現地の生徒たちは家に帰ってしまうので、夏休みは完全に日本語しか使えない環境になっていました。

(↓初めてのルームメイト)

 

2回目のアメリカ留学

私は1回目の留学からもっとアメリカにいたい、英語をもっと勉強して話せる様になりたいと思い、2回目の留学を決意しました。母子家庭で育った私は親に迷惑をかけたくなっかたので取りえず自分の力でいける留学プランを探し始めました。

大学が提携している海外の留学先を見てもどれも高額で(ほかに留学プランの探しかたもわからず)半ば諦めていましたが、大学内の国際交流課の方にあるプログラムを教えていただくことになりました。

このプログラムはISEPという団体に加盟している大学ならその大学に留学ができるプログラムで半年間(学費、ミールプラン、寮費込み)で25万円という格安留学でした。

最大1年間留学ができたので早速大学内の面接を受け、見事選抜されアメリカへまた行くことがが決まりました。

私は、さらに返済不要の奨学金にも応募しギリギリで落ちてしまったのですが。少しの援助をしてもらえるということで、返済不要の援助を受けることになり,そして大学4年時にアメリカのインディアナ州へ飛び立ちました。(少しの援助といっても留学費と航空費を賄える量だったので本当に助かりました。)

前回とは、違っていきなりの学部留学ということで初めから現地の授業を受けることに、、、

初日から内容が難しすぎて全く理解できず、最初の2ヶ月は不安のあまり朝に食べるヨーグルトさえ喉を通りませんでした。(私は、めちゃくちゃメンタルが弱いです。)

特に単位を1つでも落とすと帰国後、留年確定だったのが1番の原因だったと思います。(帰国後は、無事全単位を変換し卒業できました。)

ですが、3ヶ月くらい経つとそれに慣れてしまったのか少しずつ気持ちが楽になりました。

その頃には現地の友達もたくさんでき、イベントごとにも参加して留学生活を楽しんでいました。

そして私は、あるアメリカ人女性に留学先で出会い、そこから人生が大きく動き始めました。(正直詳しくは話せないので簡単に書かせていただきます。)

(↓1枚目は、よく遊んでいた友達です。2枚目は、ある授業で仲良くなった友達に銃を撃たせてもらった時の写真です。)

 

 

帰国後の人生が大きく変わった瞬間

私は、この2回目の留学中にアメリカ人女性と付き合うことになり、お互いに真剣だったので帰国後一緒になることに決めました。

話し合った結果、フィアンセビザを取得して私がアメリカに移住するというものでした。

帰国後は、すぐに就職活動を始めていたのですが、何かと都合が悪くなると思い(正直ビザ取得にかかる期間もわからなかったため)一旦就活をやめ、アルバイトでお金を貯めながら手続きに専念することにしました。(アメリカへ1度入国しプロポーズもし、婚約指輪も渡しました。)

これは、若さゆえに起こってしまったのだと思いますが、なかなか手続きもうまくいかず喧嘩も続き、コロナウイルスが蔓延し始め、いつアメリカにいけるのかも分からなくなり、そこから関係は悪くなる一方で、別れを切り出されてしまい、どうしようもできませんでした。

結果私は、振られてしまい、その頃には大学を卒業してから1年半ほど経っていました。

正直ここから3ヶ月間は何も考えられなかったのと、それでも働かなきゃという思いでとても辛かったです。

留学を続けたい理由

私の夢は、英語を使った仕事をすることで、できればアメリカへ渡米し日系企業へ就職して、日本とアメリカと関われる様なことをしたかったです。

彼女に振られてからは、とりあえず何かしなければと思い、他の方法を探しながら、日本でも就活エージェントを使い英語を使える様な環境で働けるのか探してみました。

就活に関してはエージェントの方と面談をしましたが、私の希望を伝えたところ即戦力か新卒以外はその様な外資系企業は、無理だと言われました。(外資系企業は基本大手のため)

私の英語力はまだ自慢できるほどレベルでもありませんし、卒業してから正社員には、ならなかったので即戦力にもなれませんでした。

その時、今自分が置かれている状況を再認識しました。

正直、そこに自分の人生全てを振ってしまったことを悔やみました。

そんなある日、私は、2回目の留学先で出会った先輩と久しぶりに会うことになり、(同じ県に住んでいたのもあり)話をすることになりました。

その先輩は、留学先が行なっているまた別のプログラムで留学をしていて、そのプログラムでアメリカの大学院へ行ってみてはどうかと提案されました。

内容としては、その大学近くにある日本人補修校へ毎週土曜日に行き、そこの日本人の小学から高校生に日本語で基本科目(日本の学校で習う)を教えることでその学校を経営するTOYOTAが奨学生に学費プラス、給費を付与するという内容でした。

私の住んでいる県にある国際交流課を通して応募することで、より受かる確率が上がると先輩に教えていただき、早速そこから応募、面接することに。

面接では、志望動機も褒められ、感触も良かったので、もう心のなかでは9割型いけると信じていました。(現地にいる先輩方にも後押しされていたので尚更期待していました。)

面接から1週間後、朝起きると”選考結果発表”と書いてあるメールが届いていました。

もうこれで行くことが確信になるとの思いでメールを開けてみると”慎重に選考を行った結果、誠に残念ながら今回はご希望に添いかねる結果となりました。”と書いてあり、そこから10分は、思考が止まりました。

これまでたくさんの方に応援していただいていたので、とりあえずその方達に結果を伝えました。

その中には、ヨーロッパ人(言語パートナーを見つけられるアプリで出会った)の方達もいて、その方達にヨーロッパに来てみてはどうかと提案され、とりあえず調べることにしました。

私は、なぜかアメリカに執着してしまっていて全然気づかなかったのですが、ヨーロッパの大学院はとても安く現実味のある金額なので、そこでヨーロッパへの大学院留学を決意しました。

ハンガリーに決めた理由

私は、今ハンガリーでの留学を考えています。

理由は、単純ですが、まずハンガリー人の友達がいて、その影響でハンガリーについて調べた結果とてもハンガリーの文化、歴史的な建物に魅力的なところが多かったからです。

名前の書き方が苗字、名前の順であったり、唯一ヨーロッパの中で温泉文化あるところに親近感が湧き、親日でもあることからどんどんハンガリーに惹かれていきました。

他にもブダペストのシンボルでもある国会議事堂やドナウ側にも行ってみてみたいと思いました。

卒業後の進路、夢

私は、大学院でビジネス(今興味があるのはManagement, Leadership, Marketing)について英語で学び、大学院卒業後にハンガリーでの就職を目指します。

ビジネスについて学びたい理由としては、今後、会社で働く時に使える知識を学べるからです。

将来的には、もともとの夢でもある日本と海外の橋渡しができる様な仕事ができればいいなと思っています。

私は、昔から外国の方達と繋がるのが好きで、在学中、私は学内で日本語のチューターをし、日本に来ている留学生の日本語の会話の練習や宿題のお手伝いをしていました。

2回目のアメリカ留学でも、日本語のチューターとして、日本語のクラスをとっている生徒に日本語のお手伝いをしていました。

そしてこれからも何か機会があれば、それに似たことや、今後海外留学する方へ少しでも手伝えることがあればお手伝いしていきたいです。

(↓1枚目は、JapanesePlazaという留学生の日本語のお手伝いを大学でしていた時の写真です。2枚目は、2回目のアメリカ留学の帰りの飛行機で出会った2人で、日本が初めてということもあり連絡先を交換して一緒に東京を観光した時の写真です。)

 

 

最後に

ここで最後に私の好きなモットーを紹介したいと思います。

このモットーは映画のLIFE!(原作 The Secret Life of Walter Mitty)という映画で知り、これは、LIFEというアメリカで発行されていた雑誌のモットーです。

”To see the world, things dangerous to come to, to see behind walls, draw closer, to find each other, and to feel. That is the purpose of LIFE.” 

人生は何があるか全く予想できないできないですが、何を知るにも自分で近づきそれを見て体験するまでは、わかりません。アメリカ留学していた頃も自分から人に話しかけたことにより人脈が増え、色々な経験をすることができました。

私は、これをモットーにこれからも自分の人生を進んでいこうと思います。