自己紹介

【自己紹介】28歳からの脱藩。元教員のヨーロッパ留学計画。

この記事を見つけてくださり、ありがとうございます!

たなかと申します。

初めての投稿となるので、自己紹介をさせてください。

自己紹介

年齢:28歳

血液型:B型

出身地:高知

趣味:おいしいコーヒーを飲むこと

子どものころは「苦くておいしくないけど徹夜勉強するための飲み物」というイメージでしたが、社会人になり上司の影響でコーヒーが好きな飲み物に変わりました。

今は安い豆でもおいしくコーヒーを淹れる修行をしています。笑

これはお店で飲んだやつですね!

生い立ち

幼少期

幼稚園のすべり台にて。卒園アルバムの撮影という大事な日に限って着る服を間違えた著者

 生まれも育ちも、ずっと高知です。

好奇心旺盛で、気になるものが目に入ればいろいろと試していたと思います。

虫とか動物の観察が好きでした!

押し入れの2段目からジャンプして頭を天井にぶつけたり、父親の車を用水路の石を使って洗車したり、おもちゃの切符ハサミで家の電話機のコードを「ハイケン」して感電したり…

振り返ると、後先のことを考えない性格はこの頃からすでに備わっていたようです。笑

小学生

 英語を学ぶようになったのは中学校からではなく、小学校高学年のとある出会いがきっかけでした。

アメリカから帰国子女として転校生がやってきたのです。田舎生まれですから、県外から転校生が来ただけで驚くのに、海を越えてやってきたわけですから、そりゃもうわけがわかりませんでした。彼女からは私にしか見えない異国のオーラを感じたほどです。

そして、その子がALTの先生と英語で楽しそうに会話しているのを見たとき、なにかときめきや憧れに近いものを感じました。

「英語、話せるようになれたらな。」

そこから某通信教育で英語のCDを聴いて発音の練習をしました。普段使っていない言語を話している自分を、不思議に感じたものです。

中高生

 中高一貫の学校に進学し、好きだった英語は得意科目でした。

最近、掃除していると高校1年生のクラスのプロフィールを見つけました。

「自己紹介の夢は渡米すること」と書いていたのを見て、突拍子もないこと書いてるな!とは思いつつも、この頃からなんとなく外国へ行きたかったんだ…!としみじみ思いました。

高校1年生の冬。文理選択をして、2 年生からクラスが変わります。

小学校のときから、「(血を見るのが怖いから)間接的に人を助けたい」と薬剤師を目指していました。友人からは、「文系科目が得意なんだから文系にしなよ」と適性を見抜かれていたのですが、意固地になって理系に進みます。学習が進むにつれて難しくなる数学と理科。3年生になったときはついていくのがやっとでした。

2年生の冬ごろから、自分が就職するころには薬剤師はなり手がたくさんいて、飽和状態になると聞きました。血を見るのが嫌とか言ってたのに、「どうせなら医学部、目指してみたら?」と親族に乗せられて、医学部を受験することになったのです。

中途半端な気持ちで迎えた夏のAO入試。まず自己アピールで部活動・課外活動・文化活動でいっさい書けることがなくてショックを受けました。

1次試験で不合格だったことを進路部長から告げられた10月。勉強不足だったのは認めますが、評定とは別に評価されるものがあり、それを知らなかったことやその中でできること(例えばボランティア活動)に時間を使わなかった自分自身にやるせない気持ちになりました。

相当ショックだったからか、風邪を引いて咳き込みすぎて肺が破れ、入院することに。肺気胸でした。

入院するまで途切れずに続いていた出席も途切れて皆勤賞がなくなり、楽しみにしていた最後の遠足も行けなくなり、病床で悲しみにくれていたときのことです。担任の教師が見舞いに来てくれたのです。クラスメートが書いた色紙や励ましの言葉に涙でぐしゃぐしゃになったのを覚えています。決してクラスの中でも目立つ存在ではなかった私にも、普段から声をかけてくれていた、優しい先生でした。

数ヶ月後、センター試験の結果が返ってきて、医学部に合格するにはどうしても足りない成績を見て考えました。

「あの先生みたいになりたい。」

中途半端なモチベーションで浪人して医学部を目指したくなかったことも当然ありますが、担任の先生への憧れから、地元の教育学部のある大学に進みました。

大学生

 中学時代から続く自宅からの通学は、思い描いていた華々しい大学生活を欠如させる要素でしたが、それなりに楽しいものでした。

「好きなことにたくさんの時間を使えるのが大学生活なんだ!」と言えると思います。

  • よさこい祭りという地元のお祭りに、踊り子として参加
  • 桂浜の波打ち際で相撲をして危うく流されかける
  • 受験勉強のときの反省を活かそうと、子ども対象のボランティアサークルで卒業まで続ける
  • 2日間寝ないで100キロ先の灯台まで歩き切る
  • 彼女にフラれて妹に坊主にされる  

etc…

でも何よりも刺激的だったのが、国際交流です。初めての海外は、ベトナムでした。ある教授と同じコースの先輩・同級生と2週間ほど現地の中高一貫の学校で実習を行いました。

このとき初めて、英語を使って外国の人とコミュニケーションをとりました。

私の拙い英語が、中学生に、レストランで知り合ったカナダの留学生に、コーヒーを売る店員に伝わったことがとても嬉しかった。

泥臭いやりとりでも気持ちは伝わるけど、もっと話せるようになりたい!と思うようになりました。

 帰国して英検準1級を受けますが、そう簡単には受からず…。気づけば留学生たちと話していることが多くなっていました。中国の留学生に恋をして、中国語を学んで、バックパッカーとして1週間中国に会いに行ったこともいい思い出です。

自分より年上の人が多く、いろんな思いを持って留学に来ている彼らを、友だちとして接しながらもただただすごいと思うばかりでした。

 大学生活が折り返す時期になると、短ければ2週間、長ければ1年ほどイギリスやカナダやオーストラリアで留学する先輩や同級生が増えてきました。私も留学したい!と親にお願いしましたが、入院もしたことがあるし、そんな金はないと一蹴されました。

 何とかして留学したい!と思ったときに相談相手になってくれたのが、日本語を留学生に教える先生でした。結局費用の問題を解決できず留学はできませんでしたが、この先生から言語を教える大切さを知ることができました。

社会人

 母校で高校の英語科の教員として採用され、夢だった教員生活がスタートしました。あの時憧れていた先生と同じ職場です。

 生徒は1クラス40〜50人。英語でやりとりが交わされる授業をするのが私の理想でしたが、スキル不足と、準備の時間が足りなくて諦めることに。代わりに生徒が楽しく学べるように、ICT機器を用いて動画や画像を見せて視覚的に教材内容にアプローチしたり、英語の歌やニュースを取り入れたりと少しずつ工夫しました。

しかし、学年が上がるにつれて大学受験というゴールが迫ってきます。進学校なので、難関大学に生徒を何人合格させられるか、模試の偏差値は他校と比べて高いのかなど、結果が付き纏うように感じました。

 持ち上がりで3年生の担任になると、私の授業はセンター試験や2次試験で1点でも多く取れるような「受験英語」にシフトしていきました。春にはある予備校が進学講演会に来て、「このレベルの大学の学生は、就職活動中に不利になる」という「学歴フィルター」の話をされました。

「幸せになりたければ、自分で合格を掴み取るしかない」

クラスのホームルームで、生徒たちにそんな無責任な激励をしたこともありました。彼らの選択肢を広げようと、推薦入試やAO入試についても話しました。秋になると、推薦入試の書類作成に時間をかけ、夜遅くまで学校にいたこともありました。そして、ベストを尽くしても、入学定員があるから第一志望校に不合格になる生徒もいました。

教員として受験戦争を経験して、目の前の生徒たちがみんな幸せになることはない、ひとつの席をめぐって争わなければならない世界から逃げられないことを嘆きました。

友だちに撮ってもらった写真。左手の甲が骨張るほど、めちゃくちゃ痩せてました…

 5年目になると、高校から中学校に異動することになりました。教科指導にはやりがいを感じていましたが、あることが私にとって大きな障壁となります。生徒指導です。遅刻の指導、提出物の催促…ときに最終手段として生徒に対して大きな声で叱りつけるのは、叱られた経験がほぼ皆無の私にとってストレスでした。

「君と同じように、生徒指導は苦手だけど、それを努力して乗り越えた先生もいるよ」と励ましてくれる人もいましたが、私はそれを乗り切ることができませんでした。理想とはかけ離れた教師をしている自分に失望し、ポキッと折れてしまった心。

 うつ病と診断された私は新年度を自宅のベッドで迎えました。何もする気力が起こらず、ひたすらソファとベッドで横になる日々。ネットフリックスで映画を観ていて、印象に残ったセリフがありました。

“Life is simple. Make choices and you don’t look back.” (人生は単純だ。選んだ道は後悔するな。) – Han Seoul-Oh, the Fast and the Furious Tokyo Drift-

今までどれほどあれやこれやと回り道してきたのだろう。やりたいこと、あったじゃん。

英語を通して開かれる自由な世界に憧れていて、できればそこに飛び込んでみたい。そう思うと、生きる気力が少しずつ湧いてきました。

夏休み明けから復職しましたが、どうしても留学を諦められなかったので、年度いっぱいで退職しました。

留学について

費用の点で留学を諦めていたのですが、調べてみると、ヨーロッパに卒業後の待遇はグローバルレベルなのに費用が日本の大学と同じレベルな大学があることを知りました。

親は「今まで好き勝手させたから、いい加減公務員とか安定した職につけ」とサポートしてくれる望みは薄いので、自力で奨学金を借りてでも学べる大学を探しています。

教育学部を卒業した身ですが、セカンドバチェラーとしてコンピューターサイエンスを専攻しようと思っています。主な理由は2つ。

  1. 世界中でIT人材が不足しているから、スキルがあれば国境を超えて自由に働ける
  2. 将来どの産業に進むにしてもテクノロジーが求められる時代になる

また、私の県は海と山に囲まれた、鎖国のような場所です。かつて江戸時代に坂本龍馬がこの地を脱藩したように、私も自由を求めて国外逃亡したい。タイトルにはそんな思いも込めました。今はもう教師ではありませんが、かつての教え子たちに居場所は日本以外にもあることも伝えたいです。

脱藩の道で撮りました!

よろしくお願いします。